地面 ここで粘れる、 少し粘れるってね

地面を想像すると粘れる気がするんです、もう少し

言葉は身体をとらえることができるか②

五輪書では

後方の「左足で相手の剣を踏みつける」

とされ、アレっですね

 

剣道は、

右足前、左足後方の右自然体です

「後方の左足で相手の剣を踏む」ことはできない道理ですが、ここが武蔵独自の言回しです

五輪書は、身体動作について触れながら、必ず、相手をどう攻めるか、追い詰めるかという戦うイメージを含んでいます

 

私は「剣を踏みつけるように」とは、

相手の勢いを

身体で、体幹で、後方の左足で

食い止め、

 

さらに

左足を支点に、身体を前に押し出し、

相手に立ち向かうこと

と解しています。

 

後方の左足で剣を踏みつける気持ちになることにより、守ると同時に攻めとなります

 

この表現を始点とし、武蔵は(ここからは独自解釈ですが)

足の運びは、右足を10ミリ前に出したら、左足を10ミリ引きつけ、右左右左と歩を進める

隙となりやすいから、後方の左足が前方の右足を追い越さない(ジャンプなどもってのほか)

 

後方の左足を引きつけると同時に腕、手首を振り

腕、手首と足を連動させる

手だけでなく足でも打つイメージ

 

足指は少し浮かすことで、接地が安定し、前に押し出す力が増幅される

 

両手で竹刀を握るのは例外で、基本は、片手で握り、打つこと

 

左片手打ちが基本

しかし、竹刀が重たいので、右手を添える

 

左拳左足をつなぐ支点は、竹刀を引っさげたるとき、竹刀の重さに逆らい力が入る下腹です

 

左拳は、打突後、相手顔面を正面から直撃し、突き抜ける

 

身体の勢いが、地面から、左足、下腹、左拳、を通って相手の顔面後方に突き抜けます

 

さて、私は、これまでに

沢山の正しい教え

をいただきましたが、

断片的かつ外形的でした

 

断片的な教えが、ようやく、五輪書を通して、結合し、身体をとらえることができた

と思いました

 

少し興奮しましたが、実際の動きは別です

 

 

 

 

 

 

気分の森

怒り、不安、恥、パニック、絶望、退屈、窮屈、焦燥、高揚、笑い、熱中、などを気分という枠組で捉え、何らかの法が見つけられないか探してみた

 

(気分の底)

本人も気づかない

 

気づこうとしない、気づきたくない

 

欲動

 

格好つけたがる理想に包(くる)まれた自己から見たら、歪んで、繊細で、嫉妬深く、傷つきやすく、醜いと見なされる欲動

 

が潜んでいる

 

理想に包(くる)まれた自己は、自身のあるがままの欲動を受け入れられず、むしろ、隠ぺいしようと暗躍する

 

隠ぺいがタブーtabooの源ではないか

そしてあるがままの欲動は

tabooによって雁字搦めとなり、自己にとって

正体不明に陥る

 

tabooを脇において、あるがままの欲動を際立たせ、見つめる作業

 

(気分を書くこと)

気分のイメージを捉え、文章に書いてみた

 

指や文字を使って文章に書いた気分のイメージが、脳や内蔵に刻まれた

 

そして気分が、欲動やtabooなどから、構成されていることを知った

 

気分は常に新しく感じる

しかし、時間が経過すると何事もなかったかのように消失する

そして、類似気分が、再び頭を擡げる

 

書くことで、自身の気分イメージが再現しやすくなった

 

強固に反復する自身の気分が理解され、見通しを持てるようになると、心に余裕が生まれた

 

ある時、誰かに嫉妬している自身がいた

欲動は変わらない

変える必要がない

自身の欲動を黙って受容し、見つめると、暫くして欲動は消失する

 

ただ、理想に包(くる)まれた自己が、罪のない欲動そのものを躍起になって糾弾する

 

(気分の位置)

a社会・公・仕事

 ブログを書くことも、どこかで社会につながりたいという欲動の表れ

 社会 (周囲)から発せられる期待又は悪意に翻弄されて

 

b特定の誰かへの想い

受け売りですが、唐突に万葉集から

 「あかねさす 紫野行き標野行き 野守は見 ずや君が袖振る」

 野守から見られて恥ずかしいが、僕に手を振っている君の仕草がかわいい、と感じる想い、感情の不変性

 

この人にこんなことを聴いていいのか、まずいのではという、taboo

 

c理想に包まれた自己とあるがままの自身との齟齬

母の子宮で泳いでいた時代から続いている、あるがままの自身の欲動を変化させる努力は、そろそろ諦めて、社会で他人に迷惑をかけない範囲で、外化する

 

私が、親の介護のため、仕事を休んだ

 

 aとc 自己自身と仕事の間

 bとa 親への想いと仕事の間

 bとc 親への想いと自己自身の間

 

さらに

 

   d 現在と未知との間

 

年齢を重ねる、未知への抵抗が増す

未知へ向かう気分の法を明らかにできれば、実践的だ

 

 それぞれの<間>を往来し、気分が発生する

 

気分がどこの<間>で、生じているかが、分かれば、沈着への糸口をつかむことができるかもしれない

 

一挙に危機が襲ってきても、abcdと、発生点を分離できれば耐えられるかもしれない

 

(気分の移りゆき、その後)

個人は、停滞を嫌う社会に飲み込まれ、気分の移りゆきを強要される

 

そして、どこへ気分が移りゆくのがいいのか、迷い、悩む

 

気分は後追いするしか、すべがない

 

後追いするにしても、気分のその後がはっきりしないと、気分の後始末はできない

 

私にとって、その後は明確だ

 

そこは、

賢くなく、善でもない場所

中途半端で、ドラマもない場所

愚に近く、凡庸な場所

に違いない

 

当然、賢い人ほど、その場所を避けたがる

 

その場所は、明確であっても、到達することは難しい

 

気分の森で、道標を見つけたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

動画に負けない!

「はるかぜ〜抄」  中原中也

①家が建つ①家が建つ

②僕の家ではない③けれど

 

この詩の一節は、誰にとっても「僕の家ではないが、家がどんどん建つ」くらいの「意味」だと思います。私には、社会から脱落しつつある自分を憐れみ、皮肉っているように感じられます。

 

感想はさておき、

中也になりすまして、彼が作業した?ことを列挙します

 

まず、

ア 詩句の順序を入れ替えます。

   ①→②③→①

   ②③→①→①

   ①→①→③→②

などとなり、意味は、ほぼ同じでも、それぞれ、リズム、ニュアンスが違うことが分かります。順序を入れ替えることで、表現したいものにより近づけるかもしれません。

 

 

また

イ ①①②③の順序は変えずに最後の接続助詞③「けれど」を→「のに」「が」「けどね」

などと置き変えてみましょう。ニュアンスや文章の表情が違ってきます。

 ここから、接続助詞は意味にはあまり影響は与えないものの、ニュアンス、余韻には大きな影響を与える言葉になるのではと考えられます。

 

ウ 上記の作業においては、一人声を出して詠む、ソランジルことで、ニュアンス等の違いがより鮮明になることに気づきます。ニュアンス等は、個性であり、感情ですので、ソランジルことにより自分の声、声帯などが関与し、個性の違いが際立つのです。

 

エ 詩の原文は、①の前に感嘆詞「あゝ」を挿入しており、「あゝ」が①へ懸かって強調されると同時に、②③の句の落胆の気分も増幅される仕掛けになっています。

 

オ 氾濫する動画も個性の差異、リズム、美を追求していますが、書くことは、意味や意味以外のニュアンスなどを駆使して、個性や美、気分を主張することになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プレイヤーとして山に入る

一人山に入る

 

一人しか参加できないゲームだ

二人以上だと会話が弾んで、足元への注意が疎かになる

ゲームに支障がでてしまう

 

300メートルにも満たない低山

あえて脇道、獣道らしき道を選び、縦走し、里に帰ってくるのがルールだ

 

誰かが親切にテープを巻いている枝のアイテム

などを見つけると、ホッとし、「あったぞ」と叫んでいる

 

人には出会うことは殆どなく

代わりに、うり坊に出くわす

向こうも逃げ出す、お互い怖い!

 

絶景は無用だが

自分の位置情報は絶対必要なので

プレイヤーの緊張感は高い

滑ったら骨折し、歩けなくなるし、誰も助けてくれない

猪や蛇、アブなど敵キャラに遭遇したら・・・

 

武器としての竹二本

やや心もとないが

見繕って、杖として、草を払い、蛇を逃し、滑りを防ぐ

 

程よい疲れに襲われボンヤリした時が危ない

気を引き締め直して、集中力を高める

 

プレイ中、身体からすーっと、重たい気分が漏れ、流れていくように感じるのも、このゲームの魅力だ

 

微風、匂い、鳴き声、糞、こすれあう木の音などから、何かの気配、危機を察知できるかもポイント

 

里では味わえない緊迫感の中

尿意に襲われたら、失礼して、遠慮などしない

 

夏場、汗に吸い寄せられた敵キャラのアブからスクランブルされた

身を屈めたら、アブは蜘蛛の巣にからめとられ、虚しくブンブン

 

好機の裏には、危機も潜んでいるんだよと、アブに勝ち誇ったように説教してやった

 

麓の人に山の様子を尋ねても、小学生の時、登ったくらいでの返事、私のほうが詳しいぞと、内心自慢し、嬉しかった

近くの人も案外、知らないんだ!

 

山を寝ぐらとしている動物たちは何を食べるんだろうと自問していると

段々陽が落ちてきた

ゲームオーバーの時間だ

そして足早に山から退場し、後ろを振り返る時

 

あなたも感じてみませんか?

何者かがあなたを追いかけてくるあの恐怖を!

まだゲームは終わっていなかった!

みたいな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母の子宮にいた頃

病で父が安定したサラーリーマンの職を失った時、母が私を受胎した。身ごもった当時の母にとって、先の見えない出産、子育てへの得体の知れない不安は大きかったろう。その時、子宮にいた私へ、母の不安のメッセージはどう伝わったか?胎児である私は、母のメッセージをどう受け止めたか?今も危機の時、露出する私の素顔は、子宮にいた頃の私に違いない。強大な専制君主であった母の憂いに晒され、なす術なく、受け入れざるを得なかった無力な胎児のイメージが浮かびあがる。母とのドラマは既に消失したが、荒んだ母とのダイアローグの名残、残骸は残り、私の心を型取っている。誰しも密かに体験する物語の一つに過ぎないけれど、困難な状況に遭遇する時、母の子宮にいた頃を想像することは、悪くはない。

長い休日と恐怖

mentalの弱い人は長い休日が嫌いだという。僕の解釈では、長い休日は、ルーティンが崩れ、無残で貧弱な自己自身に直面する時間が多いので、きついのではないか。反対に平日は、仕事や何かの用事がルーティンとして適度に入り、忙しさに紛れ、貧弱、貧相な自己自身を直視する時間が比較的少なくてすむことになる。

貧弱、貧相の補償として、何かに委ね、没頭、憑依しているという事実を見逃さない。勿論、委ねた結果、どう出るかは別として。

 

tabooの由来

何かを話そうとした時、口籠る

特に、話すことが恥ずかしいと思う時、特に性にまつわること、その禁止、雁字搦め、ためらいはどこから来るのか、不思議だ、誰がその法を定めたのだろう、フロイドは偉い。